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求める場は自分でつくれる! 場づくりクラス2015開講
「中高生の頃、いつでも行ける場があって、とても助けられました。でも、いまはそういう場がどこにもないから、どうすれば自分で作れるのか、それを知りたいと思って参加しました。」
6月から2015年度の「場づくりクラス」がスタートしました。まだ学生の彼女は、クラスへの参加の理由をこんな風に語りました。僕は「こういう人のために、場づくりの哲学と技術はあるのだ」と思い、身が引き締まりました。
どこにもないなら、自分で作るしかない
求める場がないなら、それは自分でつくるしかない。
一人で取り組まなくてもいいが、はじめの一歩は、たった一人で踏み出さなくてはならない。
「場」というのは、工業製品と違って、簡単にコピーができない。見た目は同じような「場」でも、エッセンス(それがなくては、全体が成立しないような本質的な要素)が異なれば、その「場」はまったく別物だ。
「中高生の子たちの居場所」という言葉で語られる「場」はあちこちにあるが、彼女が体験した「何か」が、そこにはないのだろう。
「ないけど、似たようなところでいいや。」
「本当は違うけど、とりあえずここでいいや。」
そういう“現実的”な判断もあっただろうし、そういう判断を求める人もすごく多い。
「必要な妥協」と「してはいけない妥協」
必要な妥協と、してはいけない妥協。あなたはこの区別ができているだろうか?
してはいけない妥協をしてしまうと、大きく損なわれてしまう。場も、自分自身も。
もともと目指していた「A」と、目の前に提示された「B」があったとする。A=Bではない。
・差異はあるものの、本質的には同じなので、許容できる
・同じように見えるものの、エッセンスが異なっており、よって本質的に異なる
このどちらなのか区別するのだ。
エッセンスが異なる、つまり、それがなくては、全体が成立しないような本質的な要素が欠けているなら、なんと言われても、それは求めるものではない。「贅沢だよ」とか「いまは我慢」とか「なんでも経験」とか「ちょっとこだわり過ぎ」とか批判されても、スルーでいい。批判はすべて的外れだ。あなたが僕と違うのといっしょで、あなたの求めているものはそれではない。とてもシンプルだ。
自分が本当に求めているものではないと知りながら、「まぁいいや、これで」と判断してしまうのは、自分自身に対して「まぁいいや、自分なんて」と言っているのと同じこと。大切なのは気合いとか根性とか情熱とかではなく、「客観性」だ。
似て非なるものを推奨しまくる人たち
にもかかわらず、「贅沢だよ」とか「いまは我慢」とか「なんでも経験」とか「ちょっとこだわり過ぎ」とかいう人は、後を絶たないだろう。特に、自分が本当にやりたいこと、あるいは求めるものを見出すために動こうとしたときに、こういう人はあなたの前に次々と現れる。
「現実は甘くないよ。まずはここでがんばってみたら?」
例えば、こんな風に。親切そうに、心配顔で。でも、こういうのはスルーでいい。
内実は、
「私はこうして我慢してがんばっているんだから、あなたも我慢したら?」
と言っているに過ぎない。そもそも、わざわざこういうことを他人に言うことがおかしい。大きなお世話なのである。そんなことを他人に助言するひまがあるなら、自分で自分の人生を生きればいいのだ。
しかしながら、なぜこういう人が出てくるのかというと、まだまだこちらに隙があるからだ。
つけ込む隙のようなもの。ガツンと言えば動揺しそうな隙があると、「こっち側においでよ」と手招きする人が現れる。
つまり、彼らは「他者」であると同時に、「揺れる自分の心の反映」でもある。まずそれを認めて、ありがたくスルーしよう。
「場づくり」にまず必要なのは、自分を知ること
「場づくり」をするのに必要なことは、じつはたくさんある。
ジャンルで分けるなら、それは哲学と技術。
半年間15回の「場づくりクラス」では、それを濃縮して伝えているが、それでも再受講する人たちがいる。「半年じゃ自分のものにできないよ」という人も。
そうなのだが、それでもまず必要なのは、自分を知ることだ。
自分が求めるもの(場)を知ることと、自分を知ることは同じこと。自分に対する洞察の深さを越えて、他者に対する洞察を得ることはできない。その場のミッションが、だれかのためだとしても、それをしたい自分を知らなければ、なにもはじまらない。
「場にかかわること(=場づくり)」と「自分にかかわること」が深くつながり合っているのだ。
「場づくりクラス」から、もう一歩先へ…
れんげ舎の設立は1996年だが、「場づくり」をテーマに連続クラスをはじめたのは2010年、わずか5年前のことだ。
「場づくり」は、われわれにとって重要なコンセプトのひとつだったが、それは空気のようなものであり、それがコンテンツとしてここまでの需要があると当初は思わなかった。
われわれにはなにもなく、まったくのゼロだったが、「場」を丁寧につくり、支え、鍛え上げていくことで、活動を前に進め、ここまで続けてくることが出来た。
「場づくりクラス」は、ノウハウを提供するだけのクラスではないし、ファシリテーターを養成するクラスでもない。
自分の内側にあるものを大切に扱い、それを認め、そことのつながりで「場」をつくり出す──そのための哲学と技術を、共有し、深めるためのクラスだ。
東京開催のクラスは、定員を超過してしまい、参加希望の方々に断念させてしまった。オンラインで学べるものや、短期集中で濃密に学べるものなど、いまニーズに応えられるよう検討を急いでいる。興味がある人は、無料の「場づくりのチカラ」というメルマガがあるので、ここに登録して発表を待ってほしい。
「場づくり」で得られるものは「本当の仲間」
「学びの場」としての価値はもちろんだが、じつは、「場づくり」というキーワードで集まる人々のコミュニティにも、大きな魅力がある。
「仲間ができる」というのは、この時代においてとても大きな意味を持つからだ。場づくりをするためには、友達ではなく、仲間が必要なのだ。
どこにもないなら、自分で作るしかない。
していい妥協もあるが、してはいけない妥協もある。
あなたにとって必要な「場」があなたの周りにないなら、それは自分でつくるしかない。はじめは一人でも、いつかきっと仲間が現れる。それが「場づくり」の醍醐味のひとつだろう。
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