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ドッチーボールは暴力? 子どものあそびの現場から一言
Yahoo!ニュースに「ドッチボールは暴力」に賛否という記事をみかけました。なんでも炎上トピックになっているそうですが、そういうことには距離を置いて、子どもたちと20年以上あそんできた経験から、考えたことと、ちょっとした解決策を提案してみたいと思います。ちなみに、元となったツイートやブログも読みました。うなづける部分がたくさんありました。
どんな「あそび」でも「暴力」になり得る
ドッチボールに限らず、どんな「あそび」でも、やり方次第では「暴力」になる。
「ドッチボール」は、ボールを投げて当てるというあそびだから、それがわかりやすいだけだ。もっとトラッドは「Sケン」などは、ルールそのものが肉弾戦を想定しているので、そういう意味では“暴力的な”あそびかもしれない。
ただ、実際のところ、ぱっと見ただけでは、なにが起こっているのかは、なかなか分からない。
昭和っぽい「揉まれて育つ強く元気な子ども」という子ども像がある。それは理解できるし、いまでもそういうパターンはある。たくましい子どもはたくさんいる。しかし、これは「そういう子もいる」というレベルの話で、一般化はできない。
「子ども」を論じられるとき忘れられがちなことに、「大人にもいろいろな人がいるように、子どもにもいろいろな子がいる」という前提がある。これだけは、いつも忘れずにいたい。
あなただって、「大人なんだからこうだろう」などと、ひとまとめにされたくはないだろう。
ちゃんと覚えてる? ドッチボールの思い出
僕はドッチボールというと、小学3年生くらいのときの自分を思い出す。
ざらっとした堅めのボールの質感。砂まじりの風。ボールが当たったときに痛さ、怖さ。そして、うまくキャッチできるようになったときの高揚感。
僕はクラスのすみっこの方、いじめるといじめられるなら、どちらかというといじめられるに近いところに居た。小学校に入学する前から空手の道場に通っていたが、それは両親が、ひ弱な僕を案じてのことだった。そんなわけで、ドッチボールのときには、いつもハラハラドキドキしていた。
いつも逃げ回っていて、(いまでもこういう子は多いが)逃げるのが上手く、最後の一人に残ることもしばしば。
最後の一人になると、同じチームから能力以上の期待をされ、当てられてしまうと、がっかりされる。困ったものだ。
ボールが取れるようになったのは、あるコツが分かったからだ。それは、よけるのではなく、取りにいくこと。正面でボールをキャッチしようとすると、姿勢が安定して、ボールを取りやすくなる。それまでは、逃げようか、それとも取ろうか、という感じで手を出していたから、ボールをうまく取れなかったのだ。
ちなみに、「最後の一人」になるコツは、ボールをキャッチしようとしないことと、とにかくがんばってよけることだ。
子どもたちのドッチーボールの場合、少しコートが広めにとってあると、最後の一人を遠くから狙って当てるのは難しい。だから、特によけるのが上手ということではなく、ボールを取ろうとせず逃げまくる子は、最後の一人になりやすいのだ。
子どもとかかわる指導者は、自分が子どものときどんな気持ちだったか、よく思い出してみるといい。
別にそれを活かすとかではなく、それだけで、少しだけ子どもに近づける。
救世主はコレ! キャンディボールを使ってみて!
れんげ舎の子どもの活動は、男女混合どころか、小中学生にわれわれ大人がまじってガチあそびしているので、あるボールを使っている。異年齢であそぶなら、このボールがいいですよ。大好きです、キャンディーボール。
ちょっとメタリックな色味で、何色かある。ただ、購入するときには、類似品(?)もあるので注意。
似たようなカラフルなゴムのボールでも、別メーカーのボールはやわらかすぎて、幼児が転がして一人遊びをするくらいならいいが、小学生以上が集団あそびをするときには向かない。
キャンディーボールは、それなりにウエイトがあるので、コツをつかめば体重を載せて遠くまで投げることができる。でも、至近距離で顔に当たってしまっても、びっくりはするが、ほとんど痛くない。「当たって痛い!」という恐怖心がなくなっていくので、いろいろな子の参加のハードルが下がる。
また、「当てたら泣いちゃうかな…」とか「痛がるかな…」なんて思っていると、速いボールが投げられる子は手加減せざるを得ず、そうなるとあそびがおもしろくなくなってしまう。異年齢集団でのあそびの場は、小さな子に体力レベルを合わせてしまうと、あそびそのものがおもしろくなくなってしまうのだ。だからこそ、工夫が必要だ。
別に製造メーカーのまわし者ではないのが(笑)、体力差のある集団で使うなら、キャンディボールを試してみてほしい。
子ども時代の「孤独」を忘れずに
子ども時代には、いつも大勢であそんで楽しかっただけではなく、子どもだからこそ感じた孤独感があった。
かくれんぼをしているときに味わった孤独感。みんなのなかにいて、自分がなじめたかったときに孤独感。だれにも言えない不安、出来事、受け止めきれないたくさんの新しい経験。それらは、子どもの孤独といつも隣り合わせだ。
大人が一番忘れがちなのは、もしかしたら、この孤独感かもしれない。
僕は夏休みのセミの鳴き声だって、孤独感のなかで聴いた。
時代が大きく変わったから、自分のときの子どものときの経験を、いまの子どもたちに当てはめられない。役に立たない。でも、だからこそ、自分が子どもだったとき、一人きりで感じたこと、考えたことを、大切に覚えていてもいいのではないだろうか。
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